横浜の魅力たっぷり!爽快な横浜港ミニクルーズや、異国情緒あふれる山手西洋館、賑やかな中華街に、マリンタワーなど、横浜の行きたいスポットを選りすぐり!当コースは、「A:重慶飯店(四川料理)プラン」。海老のチリソースや重慶飯店“名物”の麻婆豆腐など、やや辛めの四川料理の昼食です!東京駅「丸の内、南口」から「港の見える丘公園」に向けて走行中の映像Ⅷ。
バスは「山手マップ」のコースをなぞるように走り、港の見える丘公園に近づきます。
車内ではバスガイドから横浜の観光について話がありました。フェリス女学院(日本最初の女学院)、ベーリングホール(実写版小公女セーラの舞台)、エリスマン亭、山手234番館、山手聖公会、山手資料館、山手110番館、外国人墓地について。
フェリス女学院は、1870年(明治3年)にアメリカ改革派教会から派遣された宣教師メアリー・E.キダーにより創設された日本で最も古い近代的女子教育機関です。当初は「キダーさんの学校」と呼ばれていましたが、後にフェリス・セミナリーと名づけられました。その後、さまざまな変遷を経て、現在はフェリス女学院として知られています¹。学校の歴史は、宣教師の情熱と教育への献身によって築かれてきました。
宣教師メアリー・エディー・キダー(Mary Eddy Kidder、結婚後は Mary Eddy Kidder Miller、1834年1月31日 - 1910年6月25日)は、日本に派遣されて定住した最初の独身の女性宣教師であり、フェリス女学院の創立者として知られています。彼女はアメリカ改革派教会から派遣され、1869年に横浜に到着しました。その後、彼女は教育と伝道に生涯を捧げ、フェリス女学院を築き上げました。
ベーリック・ホールは、横浜市中区山手町にある西洋館で、イギリス人貿易商B.R.ベリック氏の邸宅として1930年に建設されました。この建物は、アメリカ人建築家J.H.モーガンによって設計され、スパニッシュスタイルを基調としています。外観には玄関の3連アーチやクワットレフォイルと呼ばれる小窓、瓦屋根をもつ煙突など、多彩な装飾が施されています。内部には広いリビングルーム、パームルーム、アルコーブ、化粧梁組天井が特徴のダイニングルーム、白と黒のタイル張りの床、玄関や階段のアイアンワーク、子息の部屋の壁にはフレスコ技法が用いられています。建築学的にも価値のある建物であり、平成14年から一般公開されています。
イギリス人貿易商B.R.ベリック氏は、横浜にあるベーリック・ホールの邸宅の施主です。彼はロンドン出身で、親族が経営していた文房具や機械、和紙、漆器などを扱う貿易商社「ベリックブラザー商会」を継ぎ、1898年に来日しました。ベリックは事業を拡大し、商号を「ベリック商会」に改めました。彼の経歴に注目され、東京の駐日フィンランド大使館でフィンランド領事に就任しました。ベリックはこのベーリック邸で10年ほど暮らし、第二次世界大戦が近づくと家族とともにカナダのバンクーバーに移住しました。ベーリック・ホールはスパニッシュスタイルを基調としたデザインで、現存する戦前の山手外国人住宅の中では最大の規模を持つ建物です。
J.H.モーガン(Jay Hill Morgan、1873年12月10日 - 1937年6月6日)は、アメリカ・ニューヨーク州バッファロー出身の建築家です。彼は1920年に来日し、三菱合資会社地所部が計画する丸ノ内ビルディングや郵船ビルディングなど、日本の建設業近代化の礎となる大規模ビルディングの建設に設計技師長として参画しました。彼は米国の先進的な施工技術を日本へ伝える役割を果たしました。また、1922年には設計事務所を開設し、ベーリック・ホールなどの邸宅や学校、教会などのミッション建築を主体に、銀行や病院など多くの作品を設計しました。モーガンの作品は、重厚感と安定感を兼ね備えており、横浜山手聖公会や東北学院大学本館、ベーリック・ホールなどがあります¹。彼の建築は、日本の近代建築に大きな影響を与えました。
ベーリック・ホールはフランシス・ホジソン・バーネットの小説「小公女」の映画化作品の撮影に使用されました。この物語は、孤児の少女サラが寄宿学校で過ごす姿を描いており、ベーリック・ホールはその舞台として選ばれました。映画版では、美しい庭園や歴史的な建物が印象的に描かれています。
映画「小公女」の撮影は、ベーリック・ホールの美しい庭園や歴史的な建物を活用して行われました。撮影チームは、室内シーンや外部シーンのセットを設置し、カメラや照明を配置して映画を撮影しました。また、衣装やメイクアップアーティストが俳優たちの外見を整え、監督が演技指導を行いました。映画制作は多くのスタッフと協力によって成り立っており、ベーリック・ホールの美しい環境が物語の舞台を豊かに彩りました。
「エリスマン邸」は、1925年(大正14年)から1926年(大正15年)にかけて建てられた邸宅で、神奈川県横浜市中区元町の元町公園内に位置しています。この邸宅は、スイス生まれのフリッツ・エリスマン氏が生糸貿易商社シーベルヘグナー商会の横浜支配人として活躍したもので、設計は「近代建築の父」とされるチェコ人の建築家アントニン・レーモンドによって行われました。
創建当時は木造2階建てで、和館も付いており、建築面積は約81坪でした。屋根はスレート葺き、階上は下見板張り、階下は竪羽目張りの白亜の洋館で、洋風住宅の意匠と木造モダニズム的要素を持っています。煙突、バルコニー、屋根窓、上げ下げ窓、鎧戸などが特徴です。設計者レーモンドは世界的建築家F.L.ライトの影響を受けており、そのデザインは洗練されています。
昭和57年(1982年)にマンション建築のために解体されましたが、平成2年(1990年)に元町公園内の現在地(旧山手居留地81番地)に再現されました。1階には暖炉のある応接室、居間兼食堂、庭を眺めるサンルームがあり、簡潔なデザインが再現されています。家具はレーモンドが設計したもので、2階にはかつて3つの寝室があり、山手の洋館に関する資料が写真や図面で展示されています。また、昔の厨房部分は喫茶室として、地下ホールは貸しスペースとして利用されています²。エリスマン邸は、歴史と自然の優雅な調和を感じさせる美しい西洋館として、多くの人々に親しまれています。
アントニン・レーモンドは、チェコ出身の建築家で、モダニズム建築の分野で高い評価を受けています。彼はフランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日しました。日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えました。彼の作品には、東京女子大学本館やエリスマン邸などがあります。
モダニズム建築は、工業製品を使って合理的精神のもとでつくられた建築のことです。19世紀末から成立し、機能主義や合理主義の理念に基づいています。モダニズム建築は装飾を排除し、直線的な構成を持つ立方体を特徴とします。代表的な建築家にはル・コルビュジエやミース・ファン・デル・ローエがいます。彼らの作品は、バウハウス校舎やバルセロナ・パビリオン、サヴォア邸などがあります¹。モダニズム建築は、20世紀の建築と都市計画に大きな影響を与えました。
山手234番館(Bluff No. 234)は、神奈川県横浜市中区山手町にある西洋館です。昭和2年(1927)頃に外国人向けの共同住宅として建てられ、関東大震災の復興事業の一環でした。設計者は朝香吉蔵で、4つの同一形式の住戸が対称的に並び、3LDKの間取りを持っていました。現在は一般公開されており、1階では歴史についてのパネルが展示され、2階はギャラリー展示や会議に利用されています。
1923年9月1日に発生した関東大震災は、東京や横浜を中心に首都圏が壊滅的な被害を受けました。焼失面積は約4,500ヘクタールに及び、世界最大規模の復興事業が必要でした。政府は帝都復興審議会を設置し、内閣総理大臣を総裁とする審議機関として活動しました。また、その執行機関として内務省が直轄する帝都復興院が設置され、帝都復興計画の原案作成を担いました。復興には土地区画整理事業も含まれ、東京市内の街路や公園が整備され、近代的な街並みが形成されました。関東大震災の影響は現在も受け継がれており、東京の骨格はその時の復興事業によって築かれました。
関東大震災の復興事業によって、以下の点が改善されました。
1. 都市計画と土地区画整理:帝都復興院は東京市内の街路や公園を整備し、近代的な都市基盤を築りました。これにより、交
通インフラや公共施設が改善され、市民の生活環境が向上しました。
2. 建物の耐震性向上:復興計画に基づき、新たに建てられた建物は耐震性を考慮して設計されました。これにより、将来の地
震に対する安全性が向上しました。
3. 近代的な街並みの形成:復興事業によって、東京の街並みは近代的で整然としたものとなりました。新しいビルや公共施設
が建設され、都市の景観が変化しました。
4. 経済の活性化:復興事業は雇用を生み出し、建設業や関連産業の発展に寄与しました。これにより、経済的な活性化が促進
されました。
5. 社会的な結束**:復興には多くの市民が協力し、団結して取り組みました。この経験は、市民の結束を強める要因となりま
した。
横浜山手聖公会は、日本聖公会に属する教会で、神奈川県横浜市中区に位置しています。この教会は、大谷石を使ったノルマン様式の聖堂を持っており、横浜クライスト・チャーチと同じ聖堂を共有する形で生まれた日本語会衆の教会です²。礼拝は毎週日曜日に行われており、8:00と11:00に行われています。
横浜山手聖公会は、プロテスタント・日本聖公会横浜教区に属しています。
この教会の歴史は、1859年に横浜港が開港すると、横浜居留地に住む聖公会信徒のために横浜クライストチャーチ(英語集会)が発足し、英国領事館で礼拝を行いました。その後、教会堂の建設とチャプレン(牧師)の確保が求められ、イギリス政府から建設資金の補助金が提供され、初代領事館チャプレンにマイケル・ベイリーが任命されました。1863年に初代聖堂が完成し、ベイリーが初代チャプレンとして主任司祭に任命されました。その後、教会は横浜クライストチャーチから派生した日本語会衆「横浜聖安得烈教会」(横浜聖アンデレ教会)として組織され、1901年に現在地に2代目の聖堂が完成しました。現在は英語集会と日本語集会が共存しています。
建物は鉄筋コンクリート造の表面に大谷石を貼りつけた構造で、ゴシックとノルマン風が混在した重厚なデザインをしています。内部には美しいステンドグラスがあり、その神秘的な輝きに心奪われること間違いなしです。
横浜山手聖公会では、礼拝以外にもさまざまな活動が行われています。以下は一部の活動です。
1. 聖書研究会:聖書の研究や解説を行うグループがあります。参加者は聖書のテキストを読み解き、共に学び合います。
2. チャリティ活動:地域社会への奉仕活動や支援プログラムが行われています。食料配布、ホームレス支援、災害救援などが
含まれます。
3. 音楽活動:合唱団やオルガン演奏など、音楽に関連する活動があります。礼拝での音楽演奏も重要な役割を果たしていま
す。
4. 親子教育プログラム:子育て中の親や子供たちを対象にした教育プログラムが提供されています。信仰に基づく教育や家族
の結びつきを強化する活動です。
5. 交流会やイベント:教会メンバーや地域の人々が集まり、交流を深める機会が設けられています。クリスマスパーティーや
夏祭りなどがあります。
礼拝に参加する際の注意点は以下の通りです。
1. 服装:礼拝には適切な服装で参加しましょう。一般的には清潔で控えめな服装が好まれます。
2. 時間:礼拝の時間に遅れないようにしましょう。教会のウェブサイトや案内板で正確な時間を確認してください。
3. マナー:礼拝中は静かに座り、他の参列者に配慮しましょう。携帯電話の電源を切ることも忘れずに。
4. 参加:初めての方でも歓迎されています。どなたでも参加できる環境ですので、ぜひ足を運んでみてください。
山手資料館は、1909年(明治42年)に建造された、横浜市内に残る唯一の「和洋折衷住宅」木造西洋館です。この博物館では、チャールズ・ワーグマンのポンチ絵やジェラールの西洋瓦など、文明開化当時をしのばせる展示品を鑑賞できます。また、山手外国人墓地の近くに位置しており、山手十番館と共にレストランやカフェも楽しめます³。開館時間は11:00から16:00までで、月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始(12/30~1/1)は休館日です。アクセス方法は、みなとみらい線「元町中華街駅」から徒歩6分、JR京浜東北・根岸線「石川町駅」から徒歩16分、JR京浜東北・根岸線/横浜市営地下鉄ブルーライン「桜木町駅」からあかいくつバス「港の見える丘公園前」下車で徒歩6分です²。ぜひ公式ウェブサイトをご確認いただくか、お電話でお問い合わせの上、お出かけください。
山手資料館では、明治時代の文明開化を偲ぶさまざまな資料を展示しています。具体的には、以下のようなものがあります。
1. オルガンや西洋瓦: 当時の品々を鑑賞できます。
2. 外国人墓地に葬られた貢献者のパネル: 山手外国人墓地に眠る人々の歴史に関する展示もあります。
3. 浮世絵やガラス製品**: 明治時代の横浜港に関連する資料も展示されています。
山手資料館の営業時間は、11:00から16:00までです。休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)と年末年始(12/30~1/1)です。
山手資料館の入館料金は以下の通りです。
- 大人: 200円
- 学生(小・中・高・大学生): 150円
- 65歳以上: 無料
山手111番館は、横浜市にあるスパニッシュスタイルの洋館です。ワシン坂通りに面した広い芝生を前庭とし、港の見える丘公園のローズガーデンを見下ろす建物で、大正15年(1926年)にアメリカ人ラフィン氏の住宅として建設されました。設計者はJ.H.モーガンで、玄関前の3連アーチが特徴です。赤い瓦屋根に白壁の建物は、地階がコンクリート、地上が木造2階建ての寄棟造りで、昭和初期の洋館を体験できるよう家具などを配置しています¹。現在、ローズガーデンから入る地階部分は喫茶室として利用されています¹。また、横浜市にはもう一つ歴史ある洋館「山手十番館」もあります。山手十番館は昭和42年(1967年)に明治100年を記念して建てられ、2階はフレンチレストランを提供するダイニング、1階はカフェとして利用できる空間です。
山手111番館(Bluff No. 111)は、神奈川県横浜市中区山手町の港の見える丘公園内にあるスパニッシュスタイルの洋館です。この建物はアメリカ人の両替商であるJ.E.ラフィン氏の住宅として、1926年(大正15年)に建てられました。ラフィン夫妻は8人の子供に恵まれ、この家は結婚する長男のために建てられたもので、創建当時の意匠はほぼ残っています。1996年に横浜市の所有となり、1999年より一般公開されています。また、1999年11月には横浜市指定の有形文化財に指定されています。建物はスタッコ仕上げの外壁と赤い瓦でスパニッシュスタイルにまとめられており、玄関前の3連アーチが特徴です。現在は港の見える丘公園の施設として一般公開されており、地下1階ではカフェが営業しています。
外国人墓地についてお話ししましょう。横浜にはいくつか外国人墓地が存在しますが、特に横浜外国人墓地は興味深い場所です。この墓地は、幕末の米黒船艦隊来航の際に軍人が埋葬されたことから始まりました。19世紀に横浜開港の発展に貢献した人々をはじめ、約5,000人の40数カ国の外国人が眠っています。墓地内は非公開ですが、毎週土・日・祭日に公開されており、墓地維持管理のための募金が行われています。
横浜外国人墓地は、神奈川県横浜市中区山手にある外国人墓地で、19世紀から20世紀半ばにかけて約40ヶ国、4400人以上の外国人が葬られています。この墓地の起源は、1854年にアメリカ海軍の水兵ロバート・ウィリアムズが横浜港で転落死したことから始まりました。ペリー提督はウィリアムズの埋葬地を幕府に要求し、墓地は海の見える場所に設置されました。墓地は基本的に非公開ですが、土曜日、日曜日、祝日には公開されており、埋葬されている人々の業績を紹介する資料館も併設されています。
横浜外国人墓地には多くの有名な埋葬者が眠っています。以下はその一部です。
1. エドモンド・モレル:様々な建築物を設計した建築家で、旧根岸競馬場一等馬見所や横浜山手聖公会、べーリックホールなど
の建築を残しました。
2. メアリー・キダー:フェリス女学院の創立者で、日本の教育に大きく寄与した人物。
3. ルイーズ・ピアソン:横浜共立学園の設立者で、フェリス女学院と並ぶ有名な学校の一つです。
4. 快楽亭ブラック (初代):日本の落語家で、横浜外国人墓地にも眠っています。
5. ハインリッヒ・アーレンス:ドイツ貿易商でアーレンス商会の創業者。
これらの人々は、外人墓地に埋葬されているお雇い外国人や外交官、宣教師、教育関係者、貿易商、芸術家、文化人など、日本の近代化に貢献した人々です。